■親善大使としての最初の一年を経て
(地球環境平和財団AIKAクラブ通信E・2002年春号より)

  21世紀が始まる最初の年に、国連のピースメッセンジャー的な役割を期待されているセクション(WAFUNIF)から親善大使になることを依頼されてから、1年が経った。
ヨーロッパのオペラ歌手、アフリカの民俗音楽のミュージシャン、ロシアのパフォーマーなど、世界で合計8人がこの平和親善大使に就任することになったのだという。  その前の2000年に、ニューヨークの国連本部で開催された国連サミットには参加していたものの、まさか自分に国際機関から親善大使の就任要請があるとは想像もしていなかった。関係者の説明によれば、このセクションからの親善大使は今、アジアで一人なのだそうだ。

WAFUNIF総裁ホープ氏と
WAFUNIF総裁ホープ氏と。 [2001年2月ニューヨーク]

  世界の「歌枕」を求めて、地球を旅しながら創作活動を続けている私にとって、突然のこの申し出をありがたく受けさせていただいた。  このWAFUNIFは、世界148カ国の国連研修生のOBらで組織し、UNEP(国連環境計画)・UNDP(国連開発計画)など、様々な国連機関で研修生として働いた人たちが機関や部署を超えて、共に社会のために何ができるのかを模索している。  今後、国境を超えて楽曲や本なども創作し、そこで生まれたものは国連内でも販売されてくのだそうだ。「カルチャー・フォー・ピース」というこの親善大使プロジェクトのコンセプト。宗派や国籍を超えて、同じこの星で生活する人間として私たちはどんな作品を制作していくのがいいのか。これからこの8人の親善大使だけでなく、様々な国の多様なジャンルの表現者とも連携をはかりながら、作品を創出していきたいと思っている。

  2001年2月23日、ニューヨークの国連本部で任命状を授与されてから、この1年の間にいろいろなことがあった。  国連のプロジェクトや国際会議への参加など、行った国や地域だけでも、チベット・ベルギー・ギリシャ・ローマ・インドのダラムサラ・ブータンetc・・それまでの年の倍以上だった。  そして、そうした動きはおそらくこれからも続き、2002年5月には国連の会議でカナダ、2002年7月には地球環境平和財団と国連環境計画のプロジェクトでケニアに行く予定になっている。  本業で海外に出ることも多く、今後しばらくは日本を離れる機会が多いことだろう。

15ヶ国の代表とチベットの子供たち
15ヶ国の代表とチベットの子供たち。 [2001年5月チベット]
 
チベットでは、地球環境平和財団&国連環境計画が共同主催する「地球の森」プロジェクトのため、標高3,800メートルのところに植林をしてきた。この標高3,800メートルでの植林というのは、実は世界で最も高い場所での植樹キャンペーンになるのだそうだ。宿泊した標高3,300メートルのホテルには全室、酸素ボンベが設置されていたほどだった。  平地なら、スコップを持って10本や20本の苗木を植えることも可能だと思うけれど、この標高の土地では、私には穴を掘ってポプラの木を2本植えるのが精一杯だった。国連会議に参加した15ヶ国の代表とチベットの子供たち100名以上と共に、息を切らせながら植林をしたこの体験。植樹した地域にたどり着くまでに標高5,000メートルを超える山々をいくつも越えて、チベットの大地がいかに豪快で神々しいのかを目の当たりにしてきただけに、ここに根を張るポプラの苗木の未来を祈るような気持ちで想いながら、苗木に優しく優しく土をかけてきた。  信仰深いチベットの僧侶と、この自然、さらにはどこまでも果てしない大空が、きっと小さな苗木の生育を豊かに見守ってくれることだろう。引き続きこれからも、定期的にチベットには向かいたいと思っている。

標高3,800mでの植林 標高3,800mでの植林。

  ベルギーのブリュッセルでは、アフリカ代表の親善大使・マキントさんと共に曲をつくって、国連会議が開かれたEU国会議事堂に隣接する劇場で披露してきた。  英訳していただいた詩に、マキントさんが曲をつけたものを舞台上で発表した他、オルゴールのような音色を出す「カリンバ」というアフリカの楽器が演奏される中で、日本語で五七調の詩を朗読してきた。  今回ご一緒したマキントさんというかたは、エイズで親が亡くなったアフリカの子供たちのために孤児院づくりもしている音楽家だ。アフリカの伝統的な衣装の似合う、体格のいいかたなのだけれど、澄んだ目は本当に優しくて、彼の曲が今後、日本やアジアでも多くの人たちに聴いてもらえる機会が生まれてほしいなあと、願わずにはいられなかった。  このマキントさんに限らず、今後、地球中の音楽家のかたと共に、曲をつくってみたいと思っている。日本語の五七調で綴られた交響曲やシャンソン、オペラが生まれてもいいのではないだろうか。  国籍も超えたチームで制作されたこのような曲が、今後国連はもちろん、様々な場所で発表され、CDやビデオ、絵本などが発売となり、いつの日かその収益で必要としている地域での学校や孤児院づくり、地球各地での植林キャンペーンに活かされたら本当に嬉しいと思う。

 ブータンの子供たち ブータンの子供たち。 [2001年12月ブータン]

  様々な国を回っていると、この星には両親の顔を知らないまま今日を生きている子供たちがいかに多いのかを痛感する。1本の鉛筆を半分に割って、2人で使っている子供。政治的な事情のために、親元を離れざるを得ず、兄弟で数千メートルもの山を越えて、亡命してきた子供たち。武器を持って今も、紛争の最前線に送られている少年・・。  知識では知っていても、現実にこうした状況の中にいる子供たちと会い、同じ時間を共に過ごすと、国際社会はこうした子供たちのためにどんな選択をすべきなのか、問わずにはいられない。  かつて、  寺、教会、モスクの形は変われども捧げる炎の色は変わらず という短歌をつくったことがあったけれど、同じ時代、同じ星に生まれて、同じこの大地に生かされている人間同士がどうして、いつまでも殺し合い、傷つけあわなくてはいけないのだろう、と哀しくなる。戦争や紛争によって、何が得られるというのだろう。武器が破壊しているものは、決して人間の生命のみならず、大地やそこに生きる多くの生物、この星の未来でさえあるかもしれないというのに。こうした行為をしている人々のこころにも変化が起こることをただただ願わずにはいられなかった。
  この1年、国内でも、海の日の関連事業として東京ビッグサイトで開催されたイベントに九州東海大学の戸田義宏教授と共に参加させていただいたり、地球環境平和財団と国連環境計画が中心となって毎年開催されている地球環境米米フォーラムで田植えを体験したり、特定非営利活動法人グローバル・スポーツ・アライアンスが国際オリンピック委員会や国連環境計画のかたがたを招いておこなったG-Forse2001というイベントで巨人と西武ライオンズの選手の折れたバットに短歌を書かせていただいたり、NPO法人2050と国連開発計画が中心となって国連大学でおこなわれた南々協力会議の分科会を担当させていただいたりetc――

今あらためてこうしてこの1年を振り返ってみると、ずいぶん様々な体験をした年だったことを実感する。  その間、「地雷ではなく花をください」のシリーズなどで知られる葉祥明さんと共に「森の妖精ティタの旅」という英訳つきの短歌集をはじめ、数冊の単行本を出し、今思えばいつもいつも走り続けていた気がする。  国際協力事業団のかたからは、「21世紀のボランティア事業のあり方」研究会の検討委員となりませんか、と声をかけていただき、毎月の検討委員会の他、昨年の12月にブータンを訪問して現地で活動する協力隊やシニアボランティアのかた、専門家のかたがたと出会わせていただく機会も得た。  世代も国境も越えて、現地の人々と共に歩もうとしている人たちの実践ぶりに教えられることも、感動することも多い年だった。  今でも海外のかたがたからいただくメールや手紙が、その国の自然や人々、共に観た景色まで思い起こさせてくれて、こんなにも多くの国やそこに生きる人々を育むこの地球という星の偉大さを心から実感した日々だった。  空の色だけでも、いったいいくつの色がこの大地から眺められるのだろう。  人だけに限らず、いったいいくつの生物をこの星は今日も育て続けているのだろう。  地球の偉大さ、まごころ、豊かさ。  そして、その地球さえも包み込む宇宙の広大さと優しさ。  誰がどんな目的でこの地球を、この宇宙を創設したのだろう。  そのどなたかに、あるいはこの星に、あしあとで手紙を書くように、これからも具体的な実践をしていきたいと思っている。2年目となる今年は、1つ1つの成果や国際社会への波及効果にも丁寧に気を配りながら、より意義のある活動をしていきたい。  親善大使だからとか、○○委員だからといった肩書きではなく、この星の恩恵を受け、今日もここで暮らす一人の人間として、大地に付けるこのあしあとで今日という日を耕せたら、と願う。

親善大使としての日々はまだまだ始まったばかり。  

昨年はじめて訪れたイタリアには、
「今日という日は残りの人生の一番最初の日だ」
ということわざがあるのだそうだ。

田 中 章 義 (歌人・国連WAFUNIF親善大使)
 
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